|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 航空 : [こうくう] 【名詞】 1. aviation 2. flying ・ 航空機 : [こうくうき] 【名詞】 1. aircraft ・ 空 : [そら] 【名詞】 1. sky 2. the heavens ・ 機 : [き, はた] (n) loom
An-32(アントノフ32;ロシア語:アーン・トリーッツァヂ・ドヴァー;ウクライナ語:アーン・トルィーッツャヂ・ドヴァー)は、ソ連・ウクライナ共和国のキエフ機械製作工場(KMZ;現ウクライナのANTK アントーノウ)で開発されたターボプロップ双発の多用途輸送機(ムナガツェリヴォーイ・トランスポールトヌィイ・サマリョート)である。北大西洋条約機構(NATO)は、識別のために「クライン」()というNATOコードネームを割り当てた。1976年に初飛行した。 == 概要 == === An-32 === アントノフ設計局で開発された中型双発旅客機An-24は、規格型飛行機となった少数の例のひとつで、外貌の変更を伴ったいくつかの派生型が開発された。空のトラックとして開発されたAn-26は、尾部構造が新たに設計し直されていた。An-30は、ガラス張りの航法士席を備えていた。そして、このシリーズ最後の派生型となったのがAn-32であった。An-32は、An-26で不足となっていた高地や高温多湿地域での性能を向上させる目的で開発が始められた。 航空機の飛行特性が気温変化や空気密度に甚だ敏感であるというのは、よく知られたことである。平野の飛行場であれば問題とならなくても、山岳地帯での離陸時におけるエンジンの馬力の欠点となると、これはただペイロードを強く制限するというだけではすまず、片側エンジン停止の際に大事故に繋がる恐れがある。極限下での運用が予定されたAn-32の製作に際しては、従来より強力なエンジンへの代替が求められた。この役目を果たすことのできる唯一の候補として、古いが手馴れたウクライナのイーフチェンコ設計局製ターボプロップエンジンAI-20D()が選択された。AI-20 シリーズは、An-12やBe-12、Il-38などの大型機に使用されてきた大出力のエンジンであった。An-32への搭載に際してはさらにその出力を増加させたため、エンジン出力はAn-26と比べほぼ倍となった。これにより、離着陸特性は向上され、機の貨物積載量も1,600kgに増加された。 新しいエンジンの据え付けと続く主翼の補強は、機体重心の後方への移動を齎した。予備品の確保のため、縦および航路の安定性が水平翼と尾部端の面積の拡大によって確保されることとなった。水平翼面積は、An-26の9,973m2から10,225m2に増加された。貨物ハッチの寸法は従来のものが維持されたが、名目上の輸送重量は若干拡大された。機体には、優れた短距離離着陸性能が求められた。An-32には、座乗者50名または横たわった傷病者24名の短中距離輸送が予定された。An-32はまた、地上兵およびパラシュート降下兵42名または然るべき量の貨物の搭載が可能とされた。An-32は、悪天候下やあらゆる気候条件下で、昼夜を問わず摂氏プラス45度までの温度内で使用できた。 強力な動力装備は、高度4,500mまでの山岳地帯での急な機動での飛行を可能ならしめた。未舗装滑走路での機体の運用が想定されたため、脚部には低圧の圧縮空気タイヤが装備され、吸引された異物の命中によりタービン装置へ損傷が生じるのを防ぐため、エンジンは主翼上の高い位置に設置された。高出力のエンジンに対応してプロペラもAn-26よりかなり大直径のものが採用された。エンジンが主翼上面に設置されたことにより操縦席の視界が改善され、また、キャビン内の騒音レベルも低減された。また、補助発動機としてTG-16M()が右降着装置のフェアリング先端に搭載され、離陸時に主エンジンの補助として使用された。長距離移動能力の拡大のため、貨物区画内には追加の燃料タンク(4,500ℓ)の据え付けが準備された。胴体下面の牽引架には、それぞれ500kgまでの重量を積載できる4基のパラシュートコンテナの輸送が想定されていた。また、50-100kgの航空爆弾の運用も想定され、そこにはSAB-100()照明弾も搭載できた。爆弾投下と搭載物の空中投下には、NKPB-7()照準器が用いられた。NKPB-7は、機体左舷のブリスター窓内に配置された。 An-32の工場での飛行試験は、1976年に始められた。しかしながら、機体の完成と証明は長引いた。ようやく1982年になってキエフ航空産業連合「労働(トルート)」()での量産について決定がなされた。最初の量産機は1983年7月23日に飛行し、年内には海外への輸出も開始された。1990年までに、アフガニスタン、バングラデシュ、インド、ペルー、キューバ、ザンビア、カーボベルデへ合計214機が引き渡された。最大の導入国はインドで118機、ついでアフガニスタンが49機を導入した。 最も重要なAn-32の海外購入国はインドであった。インドでは1980年にAn-32の導入を決定したあと、サトレジ()の名称でライセンス生産を開始した。サトレジ(、または)とは、パンジャーブ地方を流れるサトレジ川のことである。An-32の優れた高温・高地性能が評価され、イタリアのアレーニア社製輸送機G.222、カナダのデ・ハビランド・カナダ社製DHC-5 バッファロー、イギリスのホーカー・シドレー社製アンドーバーといったライバル機を抑えての採用となった。 1981年には、より効果的なメカニズムをもった新しい主翼と半径を減じた多翼プロペラをもつ派生型が完成された。An-24で試験されたこの新しいプロペラは、騒音の低下に寄与し、乗員室の騒音水準を客室内の水準にまで向上させた。しかし、この派生型の製作は中止された。1985年10月-11月にかけて、操縦士Yu・V・クルリン()とA・V・トカチェーンコ()、P・K・キリチューク()は、An-32で14の高度における世界記録を樹立した。その中には、機体重量25,000kg級航空機の積載物なしでの最大高度12,010m、積載物5,000kgでの11,230mの記録も含まれた。これにより、An-32は自身の先駆者の評判をいくらか救うこととなった。まだ1988年のうちに、An-26が計画経済でも赤字営業であるということが明らかになった。一方、An-32の生産性はその1.5倍で、輸送費用は山岳地帯や熱帯地方の飛行場で運用されるAn-26と比べ40%低いということが判明した。 An-32は、機体の故障率も十分に低かった。An-32の事故はわずかに3件しか報告されていない。1992年4月、インド空軍の機体が墜落事故を起こした。一方、同年6月10日にはソ連の機体(登録番号:SSSR-48058)が墜落した。1996年1月8日には、乗員のミスで過積載となった「アントノフ機」が高度に達することができずにザイールのキンシャサ空港近くの市場へ畦を作って突っ込み、300名以上が押しつぶされたと報ぜられた。この大惨事の折の機体も、An-32であったとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「An-32 (航空機)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|